本家より抜粋その1


「動かないで下さい!」
突然の発砲音に、久遠の隣にいた女性が小さく悲鳴を上げた。



――クチビルノスルコトハ――



「さあ、今日は行動についての話をしましょう」
久遠が防犯カメラを自前の警棒で叩き割っていき、饗野がいつもの演説を始める。

「『智が働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通すと窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』という、夏目漱石の作品の有名な一節がありますね。特に日本ではこの考え方が顕著です。対人関係にここまで敏感になり、頭を抱え、最終的に胃に穴が開いても、周りからは同情めいた視線しかもらえない国、というのも珍しいのではないでしょうか。今では国際化だなんだと大騒ぎですが、自分を主張するのではなく、周りと同調することが重要だとされる考え方は、随分とアメリカの洗礼を受けてきた現代の日本にも根強く生きています。他人の反応を見てビクビク生きていると、自分のしたいこともできなくて苦しいものですね」
久遠と成瀬が銀行内を走り回っている間、銀行のカウンターに立つ饗野は喋り続ける。
久遠はそれを横目で見ながら、よくやるなあ、と微笑んだ。

「さて、みなさんは今、人生をまっとうしているでしょうか。出る杭は打たれるから、と毎日を中心のない渦に巻き込まれながら過ごしている、という方が多いのではないでしょうか。ただなんとなくふわふわと生きている人生に、みなさんは誇りを持てますか?」
成瀬と共に、紙幣取り出し口でボストンバッグに金を詰める。
後ろのカウンターからは、絶えず饗野の声が聞こえてくる。
「そういえば、みなさんは力量子学というものをご存知でしょうか?これは、ミクロサイズの物質の物理法則を中心とした理論体系なのですが、この中に、不確定性原理、という面白い原理があります。今ある観測結果は、その時に観測したからこそその結果が出たわけで、観測されていない時には、何が起こっているかなんて誰にも分かりませんよ、という何とも弱気な原理です。知人の家で見つけた本のブックカバーが経済学でも、本の中身はただの漫画かもしれない。しかし、みなさんが中身を覗こうとしない限り、その本はみなさんの中で経済学を紐解く本として存在し続け、みなさんの知人も、なんとなくインテリな顔をしてみなさんの心に住み続ける。みなさんが行動を起こすまで、本当の結果はいつまで経っても姿を現しません」


久遠は後ろを振り返り、意気揚々とした饗野の横顔を見た。饗野の唇は言葉を紡ぎ、決して途切れることはない。

ふと、人間は何故喋るのだろう、という疑問が浮かんだ。
意思の疎通の為、という言葉が浮かぶが、すぐに打ち消す。動物の世界ならそれで通用するが、人間は違う。「昨日観たテレビがどうだった」などという情報は、どう考えても生命の維持には影響していないだろう。それを「人間の知能の高さ」と褒める気にはなれなかった。無駄以外の何物でもない。
すべての生命活動に全く関係のないことを、ここまで嬉々として行うことができる饗野に、久遠は感心すらした。


「ある学者は言いました、『生をたくましく推進するためには、それが、善行であろうが非行であろうが、私たちは行動しなければならない』と。思い立ったが吉日、案ずるより産むが易し。周りに何を言われようと行動することが大事なのです。その行動が道徳的なものであろうとなかろうと、それこそがみなさんの生きる道となるのです。もしもみなさんがこれから警察になろうと銀行強盗になろうと、それを周りから賞賛されようと非難されようと、みなさんはきっと、流されっぱなしで受動的な人生から脱出し、生をたくましく推進できるでしょう!」
饗野が手に持ったストップウォッチに目をやり、それに合わせるように、成瀬がバッグを持って立ち上がった。「よし、行こう」
「はーい」成瀬から一つバッグを受け取り、久遠も立ち上がる。
「四分ちょうどです。みなさん、最後までおつき合いいただいてありがとうございました。ショウは終わりです。テントを畳み、ピエロは衣装を脱ぎ、象は檻に入れ、サーカス団は次の町へ移動します」
ショウ、という考え方も人間特有のものかな、と思いながら、久遠は饗野の横に並び、深く礼をした。



車の窓を開ける。秋の風が吹き込み、久遠は軽く息を吸い込む。
人工的な街路樹が、次々に目の前を流れていく。
「ねえ、饗野さん」
「なんだ」
「『人間はただ、言葉によってのみ人間である』っていう言葉、知ってる?」
「意味が分からん」
久遠の横に座る饗野は顔をしかめ、助手席で成瀬は含み笑いをし、雪子は車のハンドルを思いきり左に切りながら「饗さんから言葉を取ったら何も残らないってことよ」と涼しく言い放った。