本家より抜粋その6


茶店は不思議な感覚に満ちていた。
こぢんまりとした店内の、例えばカウンター席に並べられた椅子、後ろで微かに流れているクラシック、充満している淹れたてのコーヒーの香り、そしてそれらに混ざる客の声さえ、揃って同じ思いで自分に接しているようだった。

表通りが見える窓側の席に座ると、やがて愛想のいいウエイトレスが来た。
コーヒーを、と言いかけ、正面を向き直し、少し迷ってやめた。

「かしこまりました」

軽く会釈をしてウエイトレスが下がっていく。
正直、彼女の爽やかな声は喫茶店に合わないように思った。




「初めて注文が揃ったね」



突然聞こえたその声は、拡散していた思考の中を通り抜けるだけだった。
思考が元に戻るのを待てず、音の発信源に間の抜けた声を返した。

「・・・・・・は?」
「注文だよ。君はいつも、コーヒーしか頼まないじゃないか」


注文、と頭の中で反芻する。
徐々に先程の音が意味を持ち始め、完成した文章に思わず顔を顰めた。
途端に目の前に座る男がうっとうしく思えて、左の窓の外に目を遣った。

「言っておきますけど、別にあなたに合わせた訳ではありませんから」


「うん、知ってる」





はっとして顔を戻した。
彼の目に見返された。





普段なら、
「それは残念だ」だとか、
「嘘をつくんじゃない、隠さなくてもいいんだよ」だとか、
そういう類の言葉を事も無げに口に出す人だ、この人は。

なのに。






少し、
ある日の穏やかな昼下がりの会話と、
自分の語り下手な性格と、
彼の無駄に強情な性格を思った。







 1週間ほど前からです。

思ってから、そう切り出した。




「私はある方のおそばに置かせてもらっています。お年を召した、気品のある素敵な方です。ご令嬢は遠く離れて暮らされているそうで、私はまだお会いしたことがありません。お連れの方は残念ながら」

一旦言葉を区切り、ゆっくり瞬きをするだけの時間を取った。
「昨年の5月に」



瞬間、顔を隠すように目を伏せた人が目の前にいて、それを見つめることが、自分にはためらわれた。
耐え切れず、テーブルの美しい木目に視線を逸らした。





昨年の5月。
そこに、酷い記憶があった。





二人の間を、和やかな談笑とクラシックが通り抜ける。


じっと動かないその人に向けて、精一杯柔らかく言った。

「その方は、アールグレイをよく好んでお飲みになります。昔は家族全員で、綺麗に手入れされたお庭を見ながら紅茶を飲んでいらっしゃったとか」
「うん」
「先日、あなたも飲んでみなさい、と私にお声を掛けて下さりました。私はその時、お仕えしている身ですからと断ったのですが、今日、あなたを見てそのことを思い出したので、少し」
「そう」




左側に目を遣った。
窓に自分と彼の姿が反射して見えて、向かい側の人がまだ俯いている事を知った。
秋の匂いがするようになった表通りを、笑いながら若者が歩いていくのを見た。




外を歩く若者も、庭先で想い出を語った老人も、そして彼も。
きっと、同じ気持ちで同じ月を過ごし、雨季に手をかざしたのだろう。




「それにしても、紅茶なんて何年振りでしょう」

わざとらしく言い放つと、彼はようやく顔を上げて苦笑した。

「ということは、君も飲んだことがあるんだね、紅茶」
細い目でからかうように窓を見た彼と反射越しに目が合い、安堵感に笑みがこぼれた。



「当たり前ですよ、私だって子供の頃から悪だったわけじゃない」


さっと彼の顔が変わり、何か言いたげにこちらを見た。
それを、遠くの景色を眺める振りをして誤魔化した。





事実は、事実だ。





「お待たせいたしました」

声の主に顔を向けると、あの愛想のいいウエイトレスがいた。
やはり、合わない、と思った。


綺麗なティーカップだった。
カップのふちに、ロリエの色をしたラインが1つ入っていた。

ソーサーからカップを持ち上げて一口飲む。
紅茶の持つ渋みに加え、見え隠れするアールグレイ独特の甘み。
ストレートなのにどこか甘い。小さな頃はそれが面白くて何度も飲んだはずの味だった。

そこに感じてしまった失望のようなものを持て余し、紅茶から視線をずらした。



ずらした先で、それは固まってしまった。








そっとカップを持って口につける。
目を閉じ、ゆっくりとカップを傾ける。
喉ぼとけの動きが、紅茶の流れる筋を正確に示した。
カップを口から離した途端にこぼれた溜息と、静かに開いた瞳。

そして、彼は呟いた。









おいしいね、と。









ああ、と心の中で嘆いた。



ああ、この人と自分のカップの中身は違うのだ。
色も味も香りも同じ紅茶のようで、本当は、何もかもが違うのだ。





「ええ、」




そうであるとしか思えない。それ以外には考えられない。


もしも、
もしもそうでなければ、

彼がおいしいと言うその温かさと甘さが、






「本当に。」






こんなにも胸に詰まる訳が、ない。






教訓。慣れないことはするもんじゃない。